2020年08月01日

非装飾者の note を読んでの感想ほか

2020/07/30 23:54
ここ数日間の脱コル議論の経緯と個人的意見について

https://note.com/x_oshiro/n/n7bd3bb5bdcfa

全文賛同します。

その上で、思ったこと。

「コルセットを脱ぐという意思がないなら脱コルセットではない、だから元から装飾していなかった人は脱コルではない」というツイートを以前見たが、それは正しいと思う。

>意思がないなら脱コルセットではない

自分もそういうツイートを何度も見たが、
自分が「非コル」と表現したのは「行為がなければ脱はない」の理です。

脱コルも「先人への敬意」を忘れちゃいけないよね
http://lttlleo.seesaa.net/article/476583565.html
「レーンに載らないから降りる行為が発生しない人」

脱コル者も非装飾者も、見た目は同じだが、装飾を受け入れていた自身の内面に向き合って装飾をやめたからこれは社会的反発、もとから装飾を受け入れてないからこれは社会的反発じゃないと、脱コル者が装飾し構造を温存していたときも非装飾だった人たちに言ってのけるのは傲慢すぎるのではないか。

強く同意。「傲慢」を自分もすごく感じた。

典型例、これ。

コルセットを脱した状態よりも、女性性の破壊という本人の意思や、装飾から非装飾への変化度が重要なのか?考えてほしい。

大量消費をしてきた先進国の人間が、エコとか持続可能社会とか脱炭素とか、
その方向転換は結構ではあるが、
初めから必要最小限で暮らしてきた先住民がいるわけじゃん・・・・・・・

という感覚が、自分には強いです。

今脳内で映像が駆け巡っているのがアニメーション映画「スピリット」。
森を切り開き鉄道を通す白人と、ラコタ族の村の暮らし。

「スピリット」:少年ジャンプとパターナリズム
http://lttlleo.seesaa.net/article/460146980.html

そして引用の指摘はヴィーガニズムの議論もこれに似ていると思った。

動物利用を可能な限り避けている状態 が
反種差別 を動機としていなければ社会的反発ではない?
動物の苦痛への共感的想像は反差別だが、同情や慈悲は種差別から脱してない?
菜食は反種差別であるべきで、健康志向は構造否定でない?

いや思想や思考も大事だけど、
意味づけよりも行動と結果のほうが大事じゃない?
議論が終わるまで肉を食べる、みたいなのより、
健康志向でも宗教理由でもとにかく肉食をやめるほうがよっぽど良くない?

というような。

なお、自分が「動物福祉」を「無いよりましだが」と言うのは、
「動物を利用する前提での待遇改善」だから、
「家畜に良い環境」を唱えるなそこじゃない、
「畜産しない」に向かいましょうよ、ということ。

また、「動物愛護」をこれも「無いよりましだが」と言うのは、
「皆がすべての動物に愛護の精神」を持つなら
「動物愛護で畜産廃止」はあり得て、そうなるならそれでもいいのだけど、
現実は「愛護する動物、愛護しない動物」。

脱コル者が非コル者に「非装飾とは」と質問して回答してもらって、悪意ではないのだろうが「状況Aでは装飾しますよね」「状況Bを装飾しなかったと言えるのでしょうか」とやっているのが、「菜食だって耕作で虫を殺してますよね」「耕地を作るために自然を破壊しますよね」と詰めてるのの別バージョンみたいで、息苦しくなった。


実際は家畜の飼料生産に膨大な土地と水が費やされている。
菜食にすれば現状より農地は減る。
畜産をやめれば牧場も放牧地も不要になる。

「非装飾とは?」と「非装飾者であろうと見なした上で定義を尋ねている相手」なのだから、少なくとも自分よりも装飾していないだろう前提の相手に「0でない」的追求をすることの、厚顔と傲慢を感じた。

ヴィーガンは皆言っていると思うけど、動物利用0は不可能。
完全なヴィーガンというのは
ギリシャ哲学にある永遠に到達できない目標の概念みたいなもので、
それを理解した上でできる限りそこに近づこうとするもの。

脱炭素を社会運動にしている人に、
飛行機に乗らなくても電車に乗るじゃないか、などとつつくのも相似。

だいたい、
脱コルは「コルが当然の社会だから不完全脱は当たり前」なのに対して、
非コルを「非とは0のはず、少しでもコルがあれば非にあらず」の完全前提(要求)って、
脱コル側にえらい都合のいい設定じゃないですか?
そういうところも厚顔で傲慢だと思う。

なんか・・・
非コルが脱コルにすごく理解を示しているのに比べて、
脱コルの非コル無理解無関心無礼がすごくてさ・・・・

やっぱりこういうところにも、
少数者だから多数者から圧を受ける、
多数者は多数者だから少数者を見ないでいられる、
少数者は多数者を好むと好まざるに関わらず見る、理解する側である、
がある。

認識は少数者>>>>>>>>多数者、なのに、
態度が多数者>>>>>>>>少数者、の、
いつでもどこでもある現象。




posted by Erin at 02:00| Comment(0) | 脱コルズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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