● 乗り物に乗るだけ、ビュッフェで食べるだけ
● 天動説、見えているものが世界
● キレイな私、潔白な私、への拘泥
● 能弁だが浅薄 はそこらじゅうにいるわけだし
● 不服従を舐めている
● 乗り物に乗るだけ、ビュッフェで食べるだけ
単純に、非コルと脱コルでは多寡の違いによって、
相対的に多数派である脱コルからイヤミーズが数として出やすい、
というのはもちろんあるとは思うけれども、
この、「脱コルから次々イヤミーズ」そのものを考えれば、
流行りものに乗っただけの、
自分の頭で考えていない、ラディカルが聞いてあきれる、
知的怠慢のくせに無駄に攻撃性が高い人が、
脱コルに一定以上含まれていて、
逆に言うと、
脱コルに限らず社会運動は、
社会運動としてのお膳立てがなされているが故に、
膳の上にあるものを食べるだけの消費者が、
運動の実行者であるという考え違いを、
一定以上呼び寄せる。
を示していると思う。
● 天動説、見えているものが世界
最大部分は思考の枠組みとしてね。
「非装飾」を「ゼロに近い、ほぼ存在しない」にするのも
「非装飾などない、この装飾抑圧社会で非などない」と言いたいわけでしょ。
でもそれさぁ、ズバリ言っちゃうと、
自分への免責を無効化されるから否認している
なんじゃない?
● キレイな私、潔白な私、への拘泥
やっぱ自己愛。狭量。
キレイな私、潔白な私、の自己像(美化)に拘泥しているんだわ。
ナタも反ナタも脱コルも「自己愛とエゴ」に向き合うべき
http://lttlleo.seesaa.net/article/476600062.html
こうも言えるな。
キレイな私、潔白な私、でなければ自分が自分を認められない。
はい~~~、道徳コルセットガンギマリの結果ですよこれ~~~。
Fは些細なことを落ち度として責められる
↓
落ち度、汚点はあってはならない
↓
落ち度、汚点がないはずの私
↓
落ち度、汚点が私にあることにするなんて!!!!
ちっちぇえ・・・・・・
もうさ、メモリが「保身」だけでいっぱいいっぱいなんだね、って感じ。
ワーキングメモリが常に常に保身に割かれて、考える余力がありませーん、な感じ。
● 能弁だが浅薄 はそこらじゅうにいるわけだし
脱コルでも同じ現象はあって当たり前なんだろう。がっかりだけど。
● 不服従を舐めている
高揚感を否定する気はないけど、
脱コルズの一部は、思い上がっている。
造反有理!愛国無罪!みたいな、
金科玉条で思考停止と見下し。
声を上げる、共闘する、それは大いに結構。
しかしそこに「自分たちの間尺が合わない人」を、
わからないならわからないまま、
自分たちの間尺に無理やり合わせて合理化することなく、
人としての敬意を払うことを、なぜだかしないできないイヤミーズが多すぎる。
なんだろね。
イヤミーズは、「木を植えた男」みたいなことはできないだろうね。
誰にも理解されなくても、そもそも知られることすらなくても、
ただ淡々と、信念に従ってやり続ける。
そいう粘り強さ、しぶとさ、固く、重い、揺るがないもの、が、
全然感じられないんだわ。ズからは。
別にね。全員に同じ課題設定とか合格点とかそういうことじゃなくて、
できないならできないで、できる人に敬意を払えば?
というだけの話なのに、
できない自分という存在をその人が作りだすと逆恨みしてるっぽいんよね。
でもそれすら自分で把握していない、うわっつらの屁理屈で否定するだけ。
ほんとやだ。こういう人たち。
2020年08月05日
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