2020年12月08日

脱コルって「脱客体」が根本でしょ、そして結論は反生殖

● 主体:客体
● 性消費
● 「脱ぐ自由」×「見られる不自由」
● 奴隷仕草への反はオラつきではない
● 「反女性規範」を個別でやるから「新兵化」する、そこじゃない
● ピラミッド構造の否定
● インディアンの部族社会
● FAは反生殖

● 主体:客体

自分は脱コルを「脱客体」だと思っている。
「鑑賞物/見られる客体」としての装飾を拒否、
「ケア係/ケアさせる客体」にされることを拒否、
「出産係/子産み養育をさせる客体」にされることを拒否、等々。

社会を家父長制の視点で見れば、
家父長制で構成されている強固な構造に驚くが、
家父長制の概念が「家長を頂点とする集団」から来るので
人間個人の単位で考えたいことも含めて家父長制を入れずに考えても

結局は「オス:女性」が「主体:客体」であることに尽きるのだと思う。

この「主体:客体」の視座を主軸にしたのが以下の記事。

女子大が男性(自認女性)の入学を許可する件~二重三重の女性差別と悪質
http://lttlleo.seesaa.net/article/460384011.html

カテゴリ:MTF-2 女子大入学許可の件
http://lttlleo.seesaa.net/category/27096273-1.html

「主体:客体」は「決定権の有無」と連結している。
「主体が決定し、客体は主体に決定される」。

だから、
オスは「自称女性」がまかり通り、
女性は「自称男性」で「ボーイズ・ドント・クライ」が展開する。

排斥者が難民施設を利用する資格があるのか
http://lttlleo.seesaa.net/article/460417000.html

排斥者がいるから難民が発生する。
加害者がいるから被害者が発生する。

このように「主体:客体」は「能動者:受動者」である。

● 性消費

主体の能動によって、他者が客体の受動者にされる。

タイツ姿を「性消費する視線という能動」が
タイツを履く女性を「性消費される客体・受動者」にする。

男の視線があからさまでなくても、男の内面で女性を客体・受動者にする。
される者がする者の内面を制御することはできない。

脱コルはここで「オスが消費しない~嫌がる有り方」になろうとしがち。
しかし、もしオスが「脱コル女子嗜好」をやりだしたらそこは一巻の終わりである。
現実問題として「今、オスが消費しない~嫌がる有り方」を選択するしかないのだが、
Aを選べばやがてAが消費され、Bに移ればBが、と、終わりがない。

外見で消費されなくなることを追求すれば、結局はブルカに行き着いてしまうのでは?

しかしちょっと待て。ブルカ姿は「主体」か?
行動に大量の制約を受ける着衣でいることが「主体の有り方」か?

違う。ブルカ姿はあくまでも「客体」だ。
「消費されないために覆い隠した客体」だ。

今唐突に頭に浮かんだのが「ナプキンを隠すための黒い袋」。

「隠す」は「消費されることへの自衛」にはなるが、
「客体というステイタス」から一歩も動いていない。

● 「脱ぐ自由」×「見られる不自由」

では
「主体的に」「脱ブルカ~ヒジャブ」?
ヒジャブをやめてみた女性の証言
「被らない自由は得ても、見られない自由はない」

ここでトップレスデモ。
「女性の体は消費物じゃない、消費するな」とトップレスデモをやれば
「消費するなと言いながら消費させる」の見本である。

トップレスについては、
直球で言わせてもらうが、バカだと思う。

なぜかと言うと、
女性の乳房は「プライベートゾーン:水着で隠すところ」が世界基準で、
女性が乳房を社会で露出するのは、裸族とヌーディストの限定空間だけだ。
世界基準の社会でプライベートゾーンを曝け出す行為そのものが異常、
主張以前に行動が異常、
その行動でそこに加害被害を作る。
よって論外。

「性消費への反対運動」は
「性消費であり性消費する内面を作るポルノへの否定」しかないのでは。

● 奴隷仕草への反はオラつきではない

女性が「行儀良さ」だけを規定され、「行儀悪さ」が許されない、
それへの反で「行儀悪さ」を奪還する、のは、まぁ、否定しないが、

話をわかりやすくするために「主語問題」に限ると
「私」を脱コルは「誘導された選択」とし
「私」を「使いたい意思」は尊重されない。
「主体的選択などない」によって。
この時点で
「俺」も「脱コル概念による、脱コルが示す正しさ」なのだが。

そして
「権力者の行儀良さ(?)」を失念しているようであることも、変だ。

ジャッポン最高権力者のソーリの自称は「私」である。
「私」で権力を振るうオス、
「私」で権力など無縁の女性、

「女性が常に私、オスは公で私、私でオレ」はそうだが、
「両者とも私、の公の場」での、権力の絶対的非対称があるだろう。
「公の場において」、「私」が核心か? のわけがない。

● 「反女性規範」を個別でやるから「新兵化」する、そこじゃない

自分は装飾コルセットについて「体の声を聞く」を結論としている。

言葉や意識については「脱客体・主体となる」が結論だと思う。

「完璧に洗練された権力者」
「権力があるから脱規範できるジョブズ」
「権力どころか排除されているから規範も放棄」

これらの現実があるわけじゃないですか。

自分は「権力」を肯定しないので「権力指向」も当然肯定しないのだが、
「権力に屈服させられない自主自立、独立自尊」は欲しいじゃないですか。

「支配指向」を否定する。
「支配拒否」を肯定する。

脱コルズのダメさクズさは彼らの攻撃性とそれによって見える「支配指向」。
その「支配指向」がオスだ、と、さまざまな言葉で批判されているのですよ。

● ピラミッド構造の否定

人間から強弱を取り除くことは不可能だから、
完全な平等が実現することはないだろうことが現実だろうが、
そうであってもピラミッド構造が大きくなればなるほど格差が拡大する。
頂点と底辺の差、搾取する者搾取される者の差。

権力と搾取の格差をできるだけ小さくするには、
ピラミッド構造を小さくする以外にないのでは。

● インディアンの部族社会

インディアンの部族社会が基本個人主義で、
村長や部族長がいるといっても「交渉代表者」のようなものだ、
というのを読んで、詳細はともかく概念として援用させてもらうと、
あるべきはこちらの方向ではないかと思う。

● FAは反生殖

しかしどうあってもヒトのメスがオスより弱者であることは変わりなく、
そこに性別で強者/弱者、加害者/被害者として子を生み出し同じことをさせるのは、
生殖において女性への虐待と子への虐待である。

FAは「反生殖、人類滅亡」しかないと思う。

極端なようだが、真面目に考えてこれより良いナニカって、ある?


posted by Erin at 00:00| Comment(0) | 脱コルセット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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